法律は武器ではなく、楽器である
多くの人は、法律を「武器」だと考えがちです。相手を打ち負かし、自分が勝つための道具であると。
けれど、私は法律は相手を負かすための「武器」ではなく、みんなの平和を守り安らぎをもたらすための「楽器」であると考えています。
これは、少しも、奇を衒ってポエムっぽく、うまいことを言いたいというわけではありません。
ここは、法律が定められる本来の仕組みに立ち返って考えてもらえば、すぐにわかってもらえると思います。
法律が制定されるのは何のため?
本来、法律は、国民同士が裁判で戦うために作られるわけではありません。
法律は、人と人との関係を整え、社会に秩序をもたらし、安心して暮らせる状態をつくるために存在しています。
法律は、個人と個人の契約の大規模版です。家庭で定める家訓、会社や団体の定款や規則といった集団の中でみんなが守るべきものとして取り決めた規範を社会、国家として定めたものが法律です。
契約を交わし、規則や法律を定めるのは、相手を攻撃したいからではありません。
むしろ、相手とトラブルを起こさずに円満に関係を維持するために、つまり、平和のために契約をするわけです。
法律もまったく同じで、国民の社会生活が平穏で安全であるようにとの願いを受けて、国民の代表機関である国会が国家の平安のために定めるのです。
したがって、法律というものが定められる目的は、争いのためではなく、平和のためというのが本来の正常な感覚であるということになります。
平和のために作られたはずの法律が、何で「武器」であるようにイメージされちゃうの?
では、このように平和のためにあるはずの法律が武器であるように感じられるのはどうしてなのでしょうか?
これは特に法律事務所のウェブサイトを見ている場面では、法廷闘争の道具として弁護士が裁判で法律を武器に戦うイメージが無意識ながらに先入観として入ってしまうからだと言ってよいと思います。
すなわち、弁護士が介入する場面は主に、個人間の紛争であり、双方の利害が対立して、その対立利益の調整を法律によって図るがゆえに、双方が自分にとっての有利な法解釈を戦わせるという個人的な戦争状態だから、法律が「武器」としてイメージされるのはむしろ自然というわけです。ですので、学生さんが社会見学で国会やお役所を訪問してそこで働く人から法律についての講義をしてもらう場面では、おそらく法律が「武器」だなんてイメージは感じないはずです。
このように、そもそも法律の本来の機能は、平和を守る道具であり、個人間の紛争の場面においても、必ずしも武器としてしか使えないというわけではありません。
紛争状態であればこそ「武器」よりも「楽器」が必要なはず
私は、法的紛争において大切なことは、当事者の方が紛争によって奪われた自分の平安と自分の人生の主導権を取り戻すことであると実感しています。被害者にあたる紛争の一方の当事者が加害者である相手方当事者を制裁することがそれに役立つこともあれば、かえって「被害者」として生きることに縛られて、平安と主体性を失うことにつながることもあります。
対人的な紛争に巻き込まれると、相手を打ち負かすことで自分の傷が癒えるような感覚に支配されてしまいがちですが、毒蛇に噛まれた際に必要なのは、憎たらしい蛇を捕まえてとっちめることではなく、抗毒素血清の投与等の治療を受けることであるのと同じように、相手を制裁することが自分の平安や主体性の回復に無益で、しかも、自分の中の毒を全身に巡らせて自滅につながる場合もありえます(THERE IS NO SPOONの関連記事はこちら)。
戦場の上空へ
この意味で、紛争に巻き込まれた場面でどのように対応するかは、大切な人生をどう生きるかに大きく影響します。
この点で、法律を武器ではなく、楽器だと考える発想、観点は、相手との地上での戦闘状態に縛られている視座を上空に高めて自分と相手を俯瞰するチャンスを与えてくれます。
紛争は人の心の平安と自己決定権を奪い取る
紛争は、人の心から平穏を奪い、怒り、不安、恐れ、憎しみは、相手の制裁、相手からの謝罪や賠償が果たされない限りおさまらず、自分の幸不幸の選択権は奪われて、相手の態度次第となり、許せないはずの相手方に自分の人生の支配権を委ねる結果となるパラドックスに陥り、不協和音が鳴り響き、人生の調和は失われます。
法律が調律する
「楽器」の「楽」は、音楽の「楽」であると同時に、安楽・極楽・娯楽の「楽」でもあります。
法律という道具を本来の平安を守るための道具「楽器」として正しく奏でることで、その不協和音を整え、再び人生に静けさを取り戻すことができます。
だから、法律は、相手を傷つける「武器」としてではなく、自分を調律し、相手との軋轢と不協和音を整えて、人生を調和のとれた音楽に戻すための「楽器」なのです。
平安は選択するもの
奇跡のコースでは、実在するのは愛のみであり、愛の不在が恐れであると言います。人は人生のあらゆる局面で、実在する愛と実在しない恐れの選択をしており、私たちに求められるのは、いつでも「愛」を選ぶことだと教えています。
心の平安と愛は、実在するものの別の側面であり、同義といえます。したがって、紛争と平安は、私たち個人が自分の選択によって選びとるものだといえます。
法律知識、相談、契約、交渉、裁判という法律家のマインドセットとスキルセット、そして、トラブル解決に携わることで蓄積した知識や経験は、紛争の当事者の方が平安を選ぶための支援に活かすことができます。
たいよう法律事務所は、不必要な争いを煽ったり、紛争の相手方を打倒するための武器としてではなく,本来の平安な状態を回復してあなたの世界に静けさを取り戻す道具「楽器」として法律を使います。
もちろん、問題解決のためには、ときに戦うことは必要であり、適正な被害回復を図るうえで責任追及の手を緩めてはならないことも多いのは事実です。ただし、「戦うためだけの戦い」になることは決して望ましいとは言えません。そこで、当事務所では、依頼者の方の最善の利益を図るべく、早期かつ円満な解決が可能な場合には、示談・和解での解決を目指すことが有益であるとの思いで活動しております。
人生の伴走者(伴奏者)
人生の伴走(伴奏)者〜紛争に平和をもたらすピースメイカーとしてあなたの人生に寄り添います
転職するとき、結婚するとき、離婚するとき、会社を作るとき、親の介護が始まるとき、病院とのトラブル、子どもの学校問題、相続と、人生には何度も分岐点があります。
そのたびに、一人きりで判断する必要はありません。
平常時からの相談役(顧問弁護士)
人生の転機に際しての立て直しのサポート(離婚、相続、労働問題)
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THERE IS NO SPOON:奇跡のコースをベースとするウェブサイト
THERE IS NO SPOONは、このように自らの弁護士業務の役割を位置づける松山健の思考基盤となる「奇跡のコース」の翻訳文の紹介記事をベースに多様な哲学、心理学、思想等を交えての思索、エッセイを記したブログです。ご興味を持っていただけた方には、ご覧いただけるとうれしいです。