それでも ボクは やってない

【映画から学ぶ実務の深層】『それでもボクはやってない』が突きつける、有罪率99.9%の絶望と法廷ホラーの真実

日本のすべての法律家が一度は観て背筋を正し、そして一般の方にとっても「明日は我が身かもしれない」という恐怖を突きつける伝説的な名作映画『それでもボクはやってない』(周防正行監督)。 本作は、徹底的な取材に基づいて日本の裁判の「リアル」を100%描き切った社会派の傑作ドラマですが、同時に、「法制度という見えない檻に閉じ込められる静かなホラー映画」という側面も持った映画です。

実務家(弁護士)の目線から、そのストーリーと法的な本質を解説していきます。

🎬 ストーリーのあらすじ:日常から突如、司法の迷宮へ

主人公の青年・金子徹平(加瀬亮さん)は、就職活動の会社面接へ向かう満員電車の中で、突然「痴漢に間違えられ」て現行犯逮捕されてしまいます。

徹平は一貫して「やってない」と無実を訴え、すぐに誤解は解けて釈放されるだろうと思っていました。しかし、警察署での取り調べで待っていたのは、担当刑事による執拗な自白の強要と勾留という孤独な現実でした。孤独感と焦燥感に苛まれるなか、徹平は起訴されてしまいます。

一度疑われたら容易には覆らない日本の刑事司法の冷酷な現実を前に、徹平は友人や家族や増えていく支援者、弁護士たちの支援を受けながら、自らの潔白を証明するための果てしない法廷闘争へと身を投じていくことになります。

👁️ 「神の目線」を持たない人間が犯す、正義の過ち

映画を観る私たちは、いわば「神の目線」で真実を知ったうえで登場人物たちを眺めることができます。だからこそ、はなから犯人だと決めつけて取り調べをする刑事や、偏見で起訴をする副検事、誤審となる判決を下す裁判官の過ちを咎めることができます。

けれど、現実の登場人物たちはみな「神の目線」を持っておらず、人間として自分の観点からしか物事を見ることができません。

実は、この映画には、いわゆる「悪人」はひとりも登場しないのです。 強引な取り調べをする刑事も、主人公を起訴する検事も、最後に判決を下す裁判官も、みんな社会を守ろうと善意で正義のために自分の職務を全うしているだけです。

「神の目線」を持つ観客から見れば、彼らは偏見に基づいて冤罪を生み出す悪者に見えます。しかし現実世界では、誰もが「神の目線」で見ることができないがゆえに、この映画の刑事たちと同じ過ちを犯してしまうリスクを常に負っています。そして、大多数の正しい判決に紛れて、誤審による冤罪は、その存在にすら気づかれないまま社会に埋もれていくのです。

司法の現場で起きる「合成の誤謬(ごびゅう)」

経済学の用語に「合成の誤謬」という概念があります。ミクロの観点(個々のパート)では正しいことでも、マクロの視点(全体)では誤りを生んでしまうことを言います。国家や公共団体、会社等の組織では、組織を構成する個々の部門では、従業員やチームは正しく稼働しているにもかかわらず、会社全体としては損失や害悪を生じてしまうような事態は、決して稀なことではありません。

この合成の誤謬を回避するためには、「全体の視座を持てばよい」という簡単な話でもありません。自分の担う役割を最大限に発揮するには、むしろ自分の目線以外を排除して、余計な仏心に邪魔をさせないことも大切だからです。

医療の分野のように、機器の進歩によって人間の知覚や判断を超えて真実を見抜く技術が伴いにくい「司法」の分野では、どうしても最後は人間頼みにならざるをえません。だからこそ、合成の誤謬を排する仕組みを何重にも組み込んだ制度設計と、最終判断権者のマインドセットにかかってこざるをえないのだと痛感します。

👻 「法制度という見えない檻」に閉じ込められる静かなホラー

本作が真に恐ろしいのは、血を流す殺人鬼や怪奇現象が登場するからではありません。「一度ボタンを掛け違えたら、精巧に作られた社会のシステム(法制度)そのものが、あなたを自動的に圧殺しにくる」という静かなホラー構造にあります。

  • 歪んだ「正義」のオートメーション: 逮捕、取り調べ、起訴、そして裁判。法を守るための正当な手続き(プロセス)が、ひとたび動き出すと、個人の叫びを無視して「有罪」へと向かって機械的に進行していきます。
  • 冷酷なシステムの壁: 映画の中では、被告人に有利で冷静な判断を下しそうになった裁判官が、突如として別の地方へ左遷されてしまうという強烈なエピソードが登場します。個人の良心すらも、司法という巨大なシステムの都合によって静かに排除されてしまうのです。

法律の世界には「疑わしきは被告人の利益に(完全に有罪を証明できないなら無罪)」という大原則があります。しかし、本作が描き出すのは、法廷がいつの間にか「被告人が、自分がやっていないという悪魔の証明をしなければならない場所」に変質している現実です。

ちょっとした運命の悪戯によって、何ひとつ悪いことをしていない人間の人生が一変し、逃げられない見えない檻に閉じ込められていく。この理不尽な恐怖は、本作を観たすべての人間の背筋を凍らせます。

⚖️ 弁護士の目線:「相手のストーリー」を覆す地道な執念

この「無実や過失の証明がいかに過酷か」という構造は、実は痴漢冤罪のような刑事事件だけでなく、当事務所が日々向き合っている民事のトラブル、特に「医療事故」や「介護施設・学校での事故」の現場でも全く同じことが言えます。

医療事故等が起きたとき、法律上、相手の「過失(落ち度)」を証明する責任は、専門知識も証拠も持たない被害者側にあります。相手側は大抵、専門用語を並べ立てたマニュアルを用意し、「最善を尽くしたが不可抗力だった」という完璧なストーリー(彼らにとってのミクロの正義)で作られた檻を構えて防衛してきます。

その厚い壁を前にしたとき、映画の弁護士たちが放った言葉が胸に刺さります。

「裁判長、どうかその目で見てください。先入観を捨てて、目の前の証拠を見てください」

終わりに:司法の限界を知り、それでも戦うために

『それでもボクはやってない』のラストシーンは、観る者に深い余韻と、ある種の絶望感、そして強烈な問題提起を残します。映画の最後に字幕で引用されるアフェニ・シャクールさん(1996年にラスベガスで何者かに射殺されたラッパー、2パックさんの母親)の「どうか私たちを、あなたたち自身が裁いて欲しいと思うやり方で裁いてください」という言葉は、すべての人間が噛み締めるべき重みを持っています。

[当事務所のご案内]

たいよう法律事務所(名古屋市東区代官町)では、刑事事件は顧問先のみの対応で原則として扱っておりませんが、医療事故・介護事故・学校トラブルなども、被害者側が専門性の壁や情報格差等によって圧倒的に不利になりやすい面がある点では、この映画の主人公と類似する性質があります。あなたの味方としての見通しをお聞きください。スマホ画面下のボタンから、いつでもお気軽にご連絡いただけます。

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