Facts are many, but the truth is one.
事実は無数にある。しかし、真理は一つだけだ。

Rabindranath Tagore
ラビンドラナート・タゴール
There are no facts, only interpretations.
事実など存在しない。存在するのは、ただ解釈だけだ。

【弁護士が観た映画『羅生門』】全員が嘘をついている――法廷でぶつかり合う「主観の檻」と、法律家の役目
今回は、黒澤明監督の不朽の名作『羅生門』をご紹介します。原作は芥川龍之介さんの短編小説「藪の中」(青空文庫 短いのですぐ読めます!)です。国語の教科書や現代文の副読本に指定として中学や高校の頃に読んだ記憶のある方も多いかもしれません。
舞台は平安時代、荒廃した京都の「羅生門」の下。激しい雨宿りをする旅法師と薪売りが、あるあまりにも奇妙な「事件」について語り始めるところから物語は始まります。 それは、森の中で武士が殺害され、その妻が盗賊に襲われたという凄惨な事件でした。
一見すると、単純な殺人・強盗事件です。しかし、検非違使(「けびいし」 平安時代初期に嵯峨天皇によって置かれた、京都の治安維持、犯罪の取り締まり、および裁判を行う臨時の官職(令外官)です。警察、司法、行政を併せ持つ大きな権限を持っていました)の尋問が進むにつれ、法廷は混沌の渦に突き落とされます。 逮捕された盗賊(三船敏郎さん)、被害者である武士の妻(京マチ子さん)、そして巫女の口を借りて語る死んだ武士の霊(森雅之さん)の3人が、なんと全員「自分が犯人だ」「自分が正しい(あるいは美しい悲劇の主人公だ)」と、同じ出来事について完全に矛盾するまったく異なる証言を始めたのです。

見どころ:誰もが「神の目線」を持てない法廷で、人間が自ら作り出す「嘘」の正体
「それでもボクはやってない」で、人は映画やドラマを見る際には「神の目線」で、すべてを見通すことができるけれど、実際の自分の人生では、ドラマの登場人物と同じように、神の目線を持つことはできず、自分に見えている世界からしか物事を見ることができないことに触れました。
それゆえに、個々人が抱く自分なりの「ミクロの正義」同士は必ずしも噛み合うとは限らない、むしろ、噛み合わないほうが普通である、というのがリアルだと言っても過言ではありません。
裁判という場面では、関係者各自はそれぞれ別の視点から見ているがゆえに、同じ事実について別の事実が見えているということが如実に現れます。コナンくんが言うように、(客観的な)「真実はいつもひとつ!」ではあるはずなのですが、その真実は、さまざまな角度や距離から、そして、さまざまな視野や視力、視点の高さ、色眼鏡越しに見られるがゆえに、見る人によって無限の顔を見せることになるわけです。この映画「羅生門」は、この人間の性(さが)を極限まで解剖しています。

面白いのは、彼らは単に罪を逃れるために意図的に事実を捻じ曲げて嘘をついているのではない、という点です。 盗賊は自分の「強さ」を誇示するために、妻は自分の「貞節さと哀れさ」を守るために、死んだ武士は男としての「プライド」を守るために、真実とは異なる自分の信じたい事実を本当の真実だと信じ込んでいます。
彼らは他者を騙しているつもりはないし、自分を騙している自覚もないままに、「自分にとって都合の良いストーリー(主観の檻)」を完成させているのです。 この映画が世界中に衝撃を与えた理由は、誰もが客観的な真実など見てはおらず、ただ「自分の見たい真実」を生きているのだ、という人間の本質的なエゴイズムを暴き出したことにあります。
「双方のストーリー」のすれ違いを暴き、客観的な事実に着地させるのは裁判官の役目
弁護士が関わる事件、事故や離婚や相続その他の紛争ごとの多くは、まさにこの『羅生門』の世界そのものです。
とはいえ、弁護士は、検事でも裁判官でもなく、代理人(民事・家事)、弁護人(刑事)として依頼人の利益を守ることが役目です。
検非違使のように、警察、検察、弁護人、裁判官すべての役割を兼ねるような職務を設けている国は、現代の先進国家では見当たりません。これは、糾弾する役割、擁護する役割、評価する役割をそれぞれ別の職務として割り振って役割を分担することでこそ、公平な裁判が実現するということを長い歴史から学んできたからこそです。
その意味で、弁護士が裁判官のように、依頼者を裁いたり、検事のように依頼者を非難したりすることは職分を逸脱しているといえます。
私が駆け出し時代に刑事弁護を通じて学んだことの一つに、嘘に騙されたくない、依頼人の主張を検察官や裁判官のように疑ったり裁いたりしたくなるのは自然な感情ではあるが、あえてその気持ちは封じて完全に信じて寄り添うというスタンスが、最善の弁護活動につながるという事実があります。疑うことで失うものよりも、信じることで得られるものの方がより大きいということです。もちろん、これは立場、職分によっては当てはまりません。警察官や検事は疑って信じないことでよりよく役目を果たせるし、裁判官は、感情に流されて肩入れしすぎないという基本姿勢を崩してしまうと正しい判断ができなくなります。もちろん、依頼者の利益を守る上での方策として、相手方や検事の立場や裁判官の立場に立ってみて気づく観点を用いて戦略を立てることは大切なことなので、弁護士としても依頼者の言い分を聞くだけでなく、客観的な第三者の疑いの目線を失わないことが重要なのはいうまでもありません。
藪の中を暴く
実際の裁判でも、当初に双方の主張・立証から読み取ることができていた筋書きが、新たな証拠や主張が出されて展開していくことで、思いもよらない真実が露わになってくるということは少なくありません。
芥川龍之介さんの原作「藪の中」では、事件の真相はまさに「藪の中」に埋もれて明かされず、読者になんともいえない余韻を残します。これに対して、黒澤監督の「羅生門」では、終盤で、最初から最後まで、ことの顛末を目撃していた語り部の見た真相が明かされます。ここが映画版の醍醐味といえますので、ぜひご覧になっていただきたいと思います。
まとめ:雨が上がったあとに、信じるべきもの
映画のラストシーン、人間のエゴイズムに絶望しかけた羅生門の下で、捨てられた赤ん坊を巡り、ある小さな「人間の善意」が描かれます。旅の法師が「おかげで私は、また人間を信じることができる」と呟き、激しかった雨が上がり、美しい光が差し込む幕切れは、人間の不完全さを知りながらも、それでもなお前を向くための希望を与えてくれます。
