FOD配信、キター!
「リーガル・ハイ」(第2シーズンの正式タイトルは「・」が入らない「リーガルハイ」)は、古沢良太さん脚本で、2012年からフジテレビで放映された大人気テレビドラマシリーズです。
「弁護士が選ぶ法曹界を描いたドラマ・漫画・映画ランキング」ドラマ部門第1位(弁護士ドットコム調べ(2021年6月22日)脚本家古沢亮太さんへのインタビュー記事はこちら)の作品でもあります。


この作品は、偏屈、毒舌、自己中心的で、金のためならどんな事件でも引き受ける堺雅人さん演じる敏腕弁護士・古美門研介(こみかど けんすけ)と、新垣結衣さん演じる真面目で正義感が強く、依頼人のために真実を追い求めようとする新米弁護士・黛真知子(まゆずみ まちこ)を中心に展開するコメディタッチの法廷ドラマです。


ドラマの放送当時は高視聴率で大人気だったのに、権利関係の調整や出演者の不祥事等の外部からはわからない諸事情によって長年に亘って動画配信サービスでの視聴ができず、DVD版の購入やレンタルでしか観ることのできない作品でした。
今回、ドラマシリーズ放映開始から14年の時を経て、ようやくフジテレビ公式動画配信サービスFODと、AmazonプライムプレミアムFODチャンネルで配信が開始されました(祝!)。放映後、なかなか観たくても観れない状態にファンが置かれていたという点で、同じくフジテレビの織田裕二さん主演の「正義は勝つ”Justice” for all!」と類似しています(こちらはDVD版すら出ない期間があったので、その期間は放映時に録画していた人以外は本当に見る手立てがない酷な状況でした)。
FODでは、第3話までは無料で、4話以降は、プレミアム会員登録して有料視聴となります。
「リーガル・ハイ」――正義を語る前に、まず人間を疑え
弁護士を主人公にしたドラマは数多くあります。依頼人の無実を信じ、悪と戦い、最後には正義が勝つ――そんな「正義の味方としての弁護士」を描いた作品は、昔から王道の人気を誇ります。
そんな「正義の味方としての弁護士」を描いた作品は、昔から人気があります。

その中でも、『リーガル・ハイ』はひときわ異彩を放っています。とくに主人公古美門研介の自己中で性格最悪でありながらも、どこか憎めない魅力のある強烈なキャラクターと演じる堺雅人さんの精緻な役の作り込みと狂気すら感じる圧倒的な演技力なしには成り立たないドラマであるのは確かで、とにかく面白い弁護士ドラマです。
しかし、このドラマは単なる「面白い弁護士ドラマ」にはとどまりません。
むしろ、法律家にとっては、かなり職務理念の核心に関わる問いかけを突きつけてくる作品です。
なぜなら、『リーガル・ハイ』は、私たちが当然のように使っている「正義」という言葉を、徹底的に揺さぶってくるからです。そして、名言コレクターである私にとっては、各話ごとに散りばめられている、ものごとの本質にブッ刺さる名言の宝庫でもあります。

古美門研介は「悪徳弁護士」なのか
主人公の古美門研介は、到底「理想的な弁護士」とは呼べません。
「依頼人のためなら勝つ」という姿勢は徹底しているが、依頼人に高額な報酬を要求し、口が悪く、性格も悪い。
第1話では、殺人事件で敗訴した黛が古美門に助けを求めますが、古美門は高額な弁護費用を提示します。ところが、その一方で、実際の裁判では圧倒的な能力を見せていきます。
ここが、このドラマの面白いところです。
古美門は、人間性の面では最悪といってよいほどの曲者なのに、弁護士としては恐ろしく優秀なのです。
逆に、黛は人間としてはずっと好感が持てます。
依頼人を思い、正義を信じ、真実を追い求めようとする。
しかし、弁護士としては、まだまだ未熟ですし、融通の効かない堅物で、人柄の良さが冷徹な判断を鈍らせて弱腰につながりかねない弱点もあります。
A good lawyer is a bad neighbor.
良き法律家は悪しき隣人である。
という米国の法諺(法律に関する格言やことわざ)がありますが、親しくお付き合いしたくない悪しき隣人、つまり、疑り深く批判的であるとか、粘着質で攻撃性が強いとか、一般的に性格の悪さとして分類される資質の多くが、法律家にとっては、有能さとして機能するパラドックスを見事に言い表しています。
黛と小美門という、この二人は、「善人だけれど弱い弁護士」と「嫌な人間だけれど強い弁護士」という、極端な対比になっています。
そしてドラマは、視聴者に問いかけます。
「弁護士に必要なのは、善良な人格なのか。それとも、依頼人を勝たせる能力なのか。」
「真実」と「裁判の真実」は同じではない
『リーガル・ハイ』がさらに奥深いのは、「真実」と「裁判で認定される事実」を同じものとして扱っていないところです。
裁判とは、当事者の主張・証拠・証言を通して、裁判所が「事実を認定」し、法を適用する手続きです。数学の公式のように、機械的にたった一つの正解が弾き出されるわけではありません。
現実の裁判でも、交通事故のドライブレコーダーや暴行等の防犯カメラ等の直接証拠によって裁判官が問題となる事件や事故の現場を直接把握できる事案ばかりではありません。
私たちは普段「真実はいつも一つ」と考えがちです。しかし現実の人間関係では、同じ出来事を見ていても人によって解釈や意味づけがまったく異なります。
夫婦喧嘩を思い浮かべると分かりやすいでしょう。
- 「私はこう言った」
- 「いや、あなたはそう言った」
- 「そんなつもりで言ったんじゃない」
- 「私はそう受け取った」
そこには、単純な二元論では割り切れない世界が広がっています。法律問題の難しさは、まさにこのズレにこそ存在します。
私たちは普段、「真実は一つ」と考えがちです。
しかし、現実の人間関係では、同じ出来事を見ていても、人によって意味づけがまったく違います。この点は、黒澤明監督の「羅生門」がたいへんわかりやすく描いてくれていますので、ぜひ記事と映画をご覧ください。
単純な「真実」だけでは説明できない世界について、まず「事実」が何であるかを確定し認定する作業を行い、そのうえで、その「事実」に適用されるべき法律の構成や解釈を行うわけです。
つまり裁判とは、客観的に存在した事実に正しく法律を適用する場である以前に、「何が事実として認定されるか」を競い合う場でもあるのです。
法律問題の難しさは、まさにそこにあります。
古美門の持つ毒

古美門は、相手の弱点を容赦なく突きます。
- 相手が何を信じているか
- 何を恐れ、何を隠しているか
- どこに論理の破綻があるか
そして、相手が信じる「正しい物語」そのものを粉々に破壊します。
見ている側としては痛快でありながら、同時に底知れぬ怖さを覚えます。なぜなら、私たちは皆、自分の人生について、自分なりの観点視座からしか物が見えず、自分の人生について「都合の良い物語」を握りしめて生きていて、その物語に整合するように事実を解釈してしまうからです。
- 「私は正しい」
- 「相手が悪い」
- 「私は理不尽な被害者だ」
- 「こんなに頑張ってきたのに」
そうした自己正当化の物語を、古美門はあっさりとひっくり返します。それこそが『リーガル・ハイ』の持つ猛毒です。
「正義」は、ときに人を思考停止させる
黛は、当初「正義」を信じています。
悪い人間を裁き、弱い人を助け、真実を明らかにする。
弁護士とは、そういう仕事だと思っている。
もちろん、それ自体は間違いではありません。
しかし、現実の社会では、「正義」という言葉ほど危険なものもありません。
なぜなら、自分を正義の側に位置付けた瞬間に、自動的に相手は悪となり、悪は罰せられて当然で容赦無用ということになるからです。
There is nothing that strengthens the ego more than being right.
正しくあろうとすることほど、エゴを強めてしまうものはほかにありません。
Being right is identification with a mental position – a perspective, an opinion, a judgement, a story.
正しくあろうとすることは、ひとつの心理的な立場、ある観点、ある意見、ある価値判断、ある物語に肩入れすることだからです。
For you to be right, of course, you need someone else to be wrong, as so the ego loves to make wrong in order to be right.
あなたが正しくあるためには、当然ながら、あなたにとってほかの誰かが間違っている必要が出てくるので、エゴは正しくあるために、喜んで他者を悪者に仕立て上げるわけです。

Eckhart Tolle, A New Earth: Awakening to Your Life’s Purpose
エックハルト・トール
「私は正しい」
「だから、あなたは間違っている」
この構図にハマると、人は相手の話を聞かなくなります。「第3の案」第2章シナジーの原則で、他者をカテゴライズすると、他者を人間としてではなく「モノ」として見ることになるというパラダイムが紹介されます。
先日、ある友人が車を運転していた時、別の車のドライバーがクラクションを鳴らし、彼女に手を振った。彼女は自分の車に何か非があったと思い、速度を落とした。だがその車は速度を上げ、危うく衝突しそうなほど彼女の車に近づき、とある政治家を罵倒する言葉を投げつけた。その時彼女は、その政治家を支持するステッカーを車のバンパーに貼っていたことに気づいたのである。それを見て憤慨したドライバーにとって、彼女は人間ではなく、バンパーステッカーというモノであり、憎悪の的だったのである。
怒ったその男は、私の友人を人間として見ていなかった。しかしそれによって、彼は自分の人間性をも否定したのである。おそらく彼には家庭も仕事もあるだろう。彼を愛する人たちもいるはずだ。しかしあの選択の瞬間、彼は人間以下に成り下がってしまった。イデオロギーの鈍器以外の何物でもなかったのである。
このように他者を人間として見ない態度――類型化と言ってもいい――は、自己の内面深くに潜む不安から生まれる。それが対立の発端である。精神分析医によれば、他者については肯定的なことよりも否定的なことを覚えている傾向がほとんどの人に見られるという。著名な精神分析医のオスカー・イバラは「我々は他者の間違った行動を責め、良い行動は認めようとしないものである」と語っている。それは他者を否定的に見れば、優越感を持てるからだとイバラは指摘している。彼によれば、人が自分自身を健全で現実的な眼差しで見つめるようになれば、否定的な記憶は薄れていくという。
だから、「私はあなたを見る」パラダイムの前に、「私は自分自身を見る」パラダイムを確立しなければならないのである。

裁判でも、家族でも、職場でも、社会でも同じです。
『リーガル・ハイ』は、そこを徹底的に笑いにします。
そして、笑った後に、こちら側へ問いを返してきます。
「あなたが正しいと思っていることは、本当に正しいのですか?」と。
弁護士は必ずしも「正義の味方」ではない
弁護士法第1条は次のように規定します。
第一条 1項 弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする。
社会正義を実現することは弁護士の使命です。
『リーガル・ハイ』を見ていると、弁護士と正義という理念について改めて考えさせられます。
弁護士は、社会正義を実現することを使命としていますが、それは必ずしもあるべき正義を自ら定義して、その正義の代弁者ともいうべき「正義の味方」として関わる方法によってではありません。
裁判官のように「何が客観的正義か」を判断して裁くのではなく、「依頼人の正当な権利を全力で擁護すること」を通じて、司法プロセス全体として正義の実現を目指すのが弁護士の役割です。
世間から見れば「なぜあんな悪人を弁護するのか」と非難される人が依頼人であっても、弁護士はその言い分に耳を傾けなければなりません。
それは、依頼人の立場から世界を見ることでもあります。
「あなたは悪い人だから仕方がない」、「あなたにも落ち度がある」、「世間はあなたを批判している」といって、社会の空気が求める「正義」に染まって裁くところで弁護士が思考を止めてしまったら、弁護士の存在意義は薄れてしまいます。
弁護士の仕事は、依頼人を「無垢な善人」や「正しい人」に仕立て上げることではありません。
その人の置かれた状況を正確に把握し、最善の選択肢と法的手続きを提示することです。
だからこそ弁護士には、熱い正義感はもちろん大切ですが、それと同じかそれを上回るほどに「冷徹に物事を疑う力」が求められます。
第8の習慣からの抜粋
私の義理の息子マットが医学部に入るため面接試験を受けたとき、正直だが能力不足の外科医と不正直だが有能な外科医のどちらがよいかと聞かれた。彼はしばし考えて、ものの見事に答えた。
「状況によると思います。手術しなければならないなら、有能な外科医のところに行きます。手術が必要かどうか本当のことを知りたいなら、正直な外科医のところに行きます」
人格と能力の両方が必要であることは言うまでもないが、どちらも単独では不十分なのである。これについはH・ノーマン・シュワルツコフ将軍が次のように書いている。
軍隊ではきわめて有能なリーダーに大勢に出会った。ところが、彼らは人格を備えていなかった。何か功績を上げるたびに、賞状や勲章、誰かを押しのけての昇格、昇給といった報奨を求め、脇目も振らずトップへの道を突き進んだリーダーたちである。彼らが有能であることに疑問の余地はない。しかし人格に欠けたところがあった。逆に人格は非の打ちどころがなくとも、能力に欠けたリーダーも大勢いた。優れたリーダーになるために必要とはわかっていても、能力を高める努力をしようとせず、もうひと頑張りしようという姿勢もなかった。二一世紀のリーダーは、人格と能力の両方を備えていなければならないのである。

Stephen R. Covey
スティーブン・R.コヴィー(完訳 第8の習慣「効果性」から「偉大さ」へ )

どんな人の中にも、古美門と黛がいる

古美門と黛のぶつかり合いは、単純な拝金主義の悪徳弁護士と善良な人権は弁護士という「悪と善」の対立の構図ではありません。
むしろ、この二人は、すべての弁護士、ひいては、すべての人間の中に存在する二つの側面なのではないでしょうか。
黛には、「人を助けたい」、「正しいことをしたい」、「依頼人に寄り添いたい」という思いがあります。
一方、古美門には、「勝たなければ意味がない」、「感情ではなく結果を見る」、「相手の主張を徹底的に疑う」という現実主義があります。
どちらも正しいけれど、どちらか一方だけでは、危うい。
正義感だけでは、依頼人を守れない。けれど、勝つことだけを考えていると、人間を見失う。
だからこそ、二人がぶつかり合う。
そして、その過程でお互いが変わっていく。
『リーガル・ハイ』の本当の面白さは、ここにあるのだと思います(この両面性の対立と融合によるシナジーについては、グッドパートナー〜離婚のお悩み解決します〜でも描かれています。このドラマもすばらしいので、ぜひご覧ください)。
「勝つ」とは何なのか
もう一つ、この作品から考えさせられるのが、「勝つ」という言葉です。古美門は異常なまでに勝敗にこだわり「勝つ」ことを追求します。
裁判では、勝訴と敗訴があります。
しかし、人生そのものには判決がありません(神と共に –ALONG WITH THE GODS–、もうすぐ死にます、地獄が呼んでいるは、死後の審判で人生について生き方を問われるという、このテーマに関連する映画・ドラマです)。
人生の個々の局面のトラブルや紛争での形上の勝ち負けについての意味も、本当に答えを出せるのは自分だけです。
- 離婚裁判で勝訴しても、心に深い傷が残るなら「勝ち」なのか?
- 多額の遺産や賠償金を勝ち取っても、家族の絆が崩壊したら「勝ち」なのか?
- 相手企業を叩き潰しても、自社が疲弊しきってしまったら「勝ち」なのか?
法的な権利を守ることは大前提ですが、人間の営みはそれだけでは完結しません。
「裁判に勝つこと」と「人生に勝つこと」は違う。
法律は相手を打ち負かすためだけの武器ではありません。争いを未然に防ぎ、関係性を守り、大切な日常を守るための「防具」でもあります。『リーガル・ハイ』は極端な闘争劇を通じて、「そもそも何のために争うのか」という原点を鋭く問い直してきます。
法律は、誰かを打ち負かすためだけのものではない
法律というと、「権利を主張する」「相手を訴える」「賠償金を取る」といったイメージを持つ人も少なくありません。
しかし、本来、法律にはもっと別の役割があります。
争いを避けること。
関係を壊さないこと。
将来のトラブルを防ぐこと。
自分の大切なものを守ること。
そして、どうしても争わなければならないときには、きちんと戦うこと。
つまり、法律は戦うための武器にもなれば、戦わないための防具にもなります。
『リーガル・ハイ』が面白いのは、「戦う弁護士」を極端な形で描きながら、逆説的に「そもそも、何のために戦うのか」という問いを私たちに突きつけてくるところです。
弁護士にとって必要なのは「正しさ」よりも「視点」なのかもしれない
正義は特撮ヒーローものと『少年ジャンプ』の中にしかないものと思え。自らの依頼人の利益のためだけに全力を尽くして闘う。我々弁護士にできるのはそれだけであり、それ以上のことをするべきではない。わかったか、朝ドラ!(第4話より)
上記のよう法的な紛争解決では、宿命的に、起こったはずの事実を、各当事者が回顧的に、自分が「真実」と思う事実を突きつけ合う方法で争うことになるので、法律実務では、一つの出来事について、まったく違う二つの物語が存在することになりがちです。
離婚事件では、夫には夫の言い分があり、妻には妻の言い分がある。
会社には会社の事情があり、従業員には従業員の事情がある。
どちらか一方だけの話を聞けば、その人が完全に正しいように思える。
だからこそ、弁護士は「正しい側に立つ」というより、複数の視点を持つ仕事なのだと思います。
相手の立場からも見る。
裁判官の立場からも見る。
第三者の立場からも見る。
そして究極的に、依頼人自身が本当に望んでいるものは何なのかを考え、そこに寄り添えるように支援する。
片づけの目的は、片づけることそれ自体ではなく、その先にある『自分が本当に生きたい人生』を生きることにあります。

掃除のプロにとっては、ゴミを片付けるのが掃除ではない。美しい場所を創り出すのが掃除なのだ。

田村洋一(「CREATIVE DECISION MAKING 意思決定の地図とコンパス」90ページ)
法律実務も同様です。手続きや勝訴は手段に過ぎず、その先にある「依頼人が望む人生の再構築」こそが本質です。
「リーガル・ハイ」が今でも面白い理由
『リーガル・ハイ』の第1期は2012年に放送され、その後スペシャルドラマを経て、2013年には第2シリーズが放送されました。第2シリーズでは、古美門・黛に加えて岡田将生さん演じる羽生晴樹という新しいタイプの弁護士が登場します。
この作品が放送から時間が経った今でも強烈な印象を残しているのは、単に古美門のキャラクターが面白いからではありません。
「正義とは何か」
「真実とは何か」
「人はなぜ争うのか」
「弁護士は誰のために仕事をするのか」
「勝つとは何なのか」
という、簡単には答えの出ない問題(クネヴィン・フレームワーク)を、説教臭く語るのではなく、笑いながら考えさせてくれるからです。
古美門がマシンガントークでめちゃくちゃなことを言い、黛が怒り、服部(里見浩太朗さん、いい味出てます)が淡々と絶品料理を作り、法廷では壮絶な言葉の応酬が始まる。
お腹を抱えて笑っているうちに、いつの間にか自分自身の「正義」や価値観を揺さぶられている。それが『リーガル・ハイ』という作品の凄さだと思います。
「正義の味方」ではなく、「あなたの味方」であること
弁護士という仕事をしていると、「先生はどちらが正しいと思いますか」と聞かれることがあります。
しかし、そこは出発点かもしれないけれど、目指すべき着地点は別のところにあるかもしれません。
紛争に直面している局面ではすぐに見つめることは難しいけれど、必要なのは、自分が勝ちたいと思っている背後にある勝つべき理由を見極めることかもしれません。
本当に守りたいものは何のか?
本当は、どうなりたいのか?
何を失いたくないのか?
という問いです。
裁判で勝つことが目的なのか。
お金を得ることが目的なのか。
謝罪してほしいのか。
家族との関係を守りたいのか。
会社を守りたいのか。
過去に区切りをつけて前向きに生きたいのか。
それとも、ただ誰かに自分の話を聞いてほしいのか。
法律問題は表面的には、紛争の相手方との間での勝ち負けという形でしか解決が見えませんが、その奥には、いつも個人個人それぞれに求める人生への向き合い方の欲求が潜んでいます。
だからこそ私は、弁護士は(社会)「正義の味方」であるよりも、「あなたの味方」であることのほうが大切なのではないかと思っています。
古美門のように「勝つこと」に徹する力も必要です。
黛のように「人を信じようとする力」も必要です。
そして、その二つの間を行き来しながら、「この人にとって、本当に必要なものは何なのか」を一緒に考える。
それこそが、法律という道具を人の人生のために使うということなのかもしれません。
『リーガル・ハイ』は、そんな当たり前だけれど忘れがちなことを、笑いと毒と、ときに圧倒的な法廷劇によって教えてくれる作品です。
法律は、誰かを打ち負かすためだけのものではありません。
そして、
勝つことと、幸せになることも、必ずしも同じではありません。
だからこそ、法律家は「正義」を振りかざす前に、一度立ち止まって考える必要がある。
――自分はいま、誰のために、何と戦っているのか。
『リーガル・ハイ』は、弁護士にとってはもちろん、自分は法律とは無縁だと思っている人にとっても、そのことを考えるきっかけを与えてくれる、非常に優れた作品だと思います。
